カレーと焼き鳥と幸せの定義の拡張性の話

 家にスパイスをいくつか揃えまして、最近カレーをやたらと作っています。もともとカレーを手作りするのに憧れていて、自分なりに色々試してはみたのですがどうにも納得のいくものが出来ず「大人しくルーを使った方が美味いじゃん」としばらく諦めていました。馬鹿なので半年もするとカレー作りにめげたことも忘れてまた作り始め、我が家のインドカレーの素晴らしいレシピに出会えたこともあって、またカレー熱が再燃している次第です。長らく「最近カレーに凝っててね」が人生で一度は言いたいセリフ第四位だったのですが、ようやく言えるようになりました。(ちなみに第二位は「またお店の方にも遊びに来てください」「うちで飲みなおしませんか」が同率で並んでいます)
 ルーを使わないカレーが簡単に作れるとは思っていませんでしたが、意外となんとかなるものです。でも、普通カレーってルーを買ってきて野菜を煮込んで作るものじゃないですか。それが一から作れるなんてちょっとしたコペルニクス的転回だと思うんです。だってそんなこと、あんまり考えませんよね。よしんば考えたとしても、スパイス選ぶの難しそうだし、美味しくできなかったら嫌だし、それならばと間違いないルーを買っちゃうもんだと思います。
 考えてみれば、僕の周りにはそうした「ちょっとした手間をかける楽しみ」が物凄い数転がっているような気がしてきます。もしかしたらあなたの周りにも、あるかもしれません。
 先日後輩と宅飲みしようという話になって、スーパーでつまみをどうしようかと相談していると、彼は「焼き鳥作りましょうか」と提案してくれました。僕には家で焼き鳥するという発想が全くなかったので、天才かよと思いました。一口大に切った鶏胸肉に塩コショウして串打ちしてコンロで焼くだけの焼き鳥ですが、そうした料理の片手間にビール飲んでる時間は控えめに言って最高なわけです。それから一人でもうちで焼き鳥するようになって、幸せの定義が少し拡張されました。
 ここで問題が一つ浮かびます。それをすることは、どうしたら思いつくのだろうか?ということです。「それ」とは言うまでもなく、人生を少し豊かにする手間のことです。言い換えると、幸せになるための時間またはお金の使い方ということになるかもしれません。ルーからカレーを作る楽しさも、家でのお手軽焼き鳥の楽しさも、僕は偶然知ることができました。しかしながら、自らの意志でそれらの楽しみを切り拓くというのはなかなか困難ではないだろうか?と思うのです。
 何故かというと、まず多くの場合それらは効率の良いやり方から随分遠いところにあるからです。生活の一部として既に組み込まれて簡素化された手順からは離れた行為だからです。焼き鳥やカレーが楽しいのは、料理という日常的行為が異化された結果と言えるかもしれません。そして、それが楽しいかどうかはやってみないと分からないという点もまた、楽しい手間の発見を困難にします。だって、スパイス選ぶの面倒くさいじゃないですか。わざわざ串打ちしなくても、全部フライパンで塩コショウして炒めたら味変わんないかもと思うじゃないですか。
 そうした効率性とか利便性とかよく分からないフィルタみたいなものが僕には被さっていて、光が屈折して見えてしまうんです。楽しいことが幾つも転がっているのに、多分スルーしちゃってます。そこら辺の花とか木とか野草の名前を憶えていたら、それだけで世界は名詞によってくっきりと確度を増すのにも関わらず、僕は道端の植物の名前なんか一つも分かりません。(いや、一つくらいなら分かるかも)毎日シャワーで済ませているけれど、入浴剤を買ってきてゆっくり湯船に使ったら幸せかもしれないし、目的地に行くのに数駅程度だったら電車よりも自転車の方が楽しく健康的かもしれません。少しだけ時間をかければ、楽しいのかもしれません。そういう幸せの定義の拡張性があなたの身の回りにも準備されていると思うと、少し楽しくなってきませんか?