「文章を書くオレ」みたいなやつがいる。

「文章を書くオレ」みたいなやつがいる。話すのであれば簡単な言葉を使いたい。書くのであれば、ちょっとは知的に見てもらえるように、あえて小難しい言葉を選ぶ。そういう瞬間に「文章を書くオレ」みたいなやつが出てくる。そいつは、書いている言葉から素直さを奪い取っていく。磨かれて丸くなった河原の石みたいにつるつるの言葉よりも、何重にも白粉を塗りたくった化粧みたいな表現を好み、感じたことそのままを伝えるのではなくて、実感を離れた隘路に赴き、暗号めいた文章を書いてひとり悦に入っている。どうしようもないやつである。そいつを何とかして追い出したいとは常々考えるのだが、頭の片隅を不当に占拠して、書き言葉に現れてくる。書き言葉だけならよいのだが、話し言葉にも出てくることがある。あなたの話し方は書き言葉のようだと評されたことまである。書くのが秀でているというわけではない。自分で書いたものを自分で読む、というのが人より好きだという傾向はある。「文章を読むオレ」は、「文章を書くオレ」と比べると、幾分性格のいいやつだ。少なくとも読んだことを素直にそのまま受け取る。疑いなどしないし、書かれていない行間まで読み解こうとする、優しいやつである。そんな人のいいやつだから、書いてあることにころっと騙されることがある。「芳香漂う吟醸ですので、冷のままお召し上がりになるか、冷蔵庫で冷やしてグラスで風味をお楽しみください」と日本酒の箱に書いてあり、「文章を読むオレ」は、なんだか美味しそうだ、冷やして飲もう!と素直に信じる。冷で飲めよと書いてるだけなのに。ようは阿保なのだ。そういうオレ達の間で、頑張って日々ニュートラルであろうとする「恒常性オレ」もいる。ホメオスタシスオレ。それらの自分は全て地続きにあって、状況によってグラデーションのどの位置に属しているのかが変わる。そういうものだと理解している。その揺らぎの中で、今自分はどう存在しているのだろうと思うことがある。

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文筆家としての自己に振り回されることがある。日常会話であれば、平易な表現を心掛けるのだが、一度文章を書く段になると、衒学的な一面が出てしまう。外連味のない文章は消え失せ、過剰に修飾された言葉ばかり浮かんできてしまい、書いては消すを繰り返すようになる。思うに、素朴な感動はシンプルな言葉でしか、本来表現ができない。「ああ松島や」としか表現できない感情もあるのだろうが、言葉を超えている感情を、何とか器に盛って差し出すために、あの手この手で言葉へ落とし込み、装飾しようとする。結果的に浮かんだ奇をてらった表現は、素朴な感動からは対極に位置しており、暫く時間を置いて読み直すと、何故このようなものを書いてしまったのだと後悔することになる。このことを話すと「あなたは言葉について考えすぎるのよ」と窘められる。「しかしながら、私の人生の重大事なのだ」と答えると「ほら、また話す前に変な間が空いてる。あなたは心の中で作文しないと喋れないのよ」と、叱られる。このように生まれついたものだから致し方ない、という言葉は飲んで、私は顔を赤らめて黙るしかない。やり場なく、手元のグラスに注がれた日本酒のボトルを眺める。精米歩合は60%の記載があり、吟醸酒である。十分に冷やしてあり、一口飲むと、果実のような酒精の香りが鼻に抜けて、天上人になったかのように心地よく酔える。ボトルには次のように書かれている。「芳香漂う吟醸ですので、冷のままお召し上がりになるか、冷蔵庫で冷やしてグラスで風味をお楽しみください」 意味は不明ながら、正しいことが書いてある。この説明を書いた担当者は、吟醸を飲むのであれば、冷であると主張している。それが正しいことは、私が今実感をしている限りは、真実である。そう、このような言葉こそ、素朴な感動を伝えるのに一役買っている一節なのだ。「このような文意、つまり、何としても冷とせよ、と強靭に伝えうる一節を書きたくて、仕事をしているのかもしれない」「馬鹿じゃないの」グラスの中で揺れる天上の湧き水に、私の顔が映る。