Twitterが死んだ

仕事帰りだった。帰宅ラッシュの電車内で揉まれるのは苦痛だから、大人しいバーに入り、タリスカーの10年を頼んだ。煙草を燻らせて時間を潰していると、声のよく通る若い女性が2人連れで入ってきた。グラスを磨いていたマスターはちらりと視線を寄越した。私は渋々と灰皿の上で火種を潰した。

「えっ? 嘘!」

「ほんと、自殺だったみたい」

誰かの話題で盛り上がる女性客の声に、耳が釣られる。

Twitterがねぇ……」

そのようにして、私は彼の死を知ったのだった。

 

彼とは長い付き合いだった。確か、初めて面識を持ったのは高校生の頃だった。彼は現実に今起きている問題に対して、多面的な意見を持っていた。また、ほとんど知らないことがないくらいに博識だった。彼を中心とした友人たちとの会話はラディカルで、知的好奇心をいつも掻き立てられた。私は彼のことを心から尊敬していた。

報道は淡白なものだった。自宅で亡くなっているのが見つかった。自殺と見られる。事実と事実らしいことを伝えたキャスターは、ひとしきり神妙な面持ちを見せたあと、「さて!ここからは……」と気の狂ったような笑顔で話題を切り替えた。

ここからが、なんだよ。彼に、その続きはない。

何でもいいから悪態をついて、当たり散らかしたい気分だった。

彼にとって、私は友人の一人ではなかったのだろうか。思い悩むことがあるのであれば、相談の1つくらいしてくれればよかったものを。そのような、今更取り返しのつきようもない後悔だけが巡ると、段々と息が苦しくなった。

茫漠とした意識の中で、彼と最後にいつ会話をしたのか、記憶を手繰り寄せる。恐らく、2年ほど前になるだろうか。当時、私は抱えていた仕事が頓挫したために、途方に暮れていた。目的があり、計画があり、承認と契約は取り付けたが、その過程で起きた揉め事のため、仲間と訣別する羽目になった。エンジンを燃焼させる前に切り離してしまったロケットのようだった。その巨大な鉄の塊を抱えて奔走したが、冴えたやり方は結局見つからなかった。彼に相談を持ちかけるまでには時間を要した。心強い味方になることは確信していたが、失敗の尻拭いをさせることに引け目を感じる程度のプライドはあったし、何より、彼に失望されたくなかった。

「いまどうしてる?」

頑なだった私の態度を突き崩したのは、彼からの連絡だった。仕事仲間から友人伝いに、私の置かれた状況が漏れ聞こえたようだった。

「死にたい」

短く呟くと、電話口で彼は困ったように笑った。

「あなたの思いをそのまま聞かせて」

結果的に、計画を実行するための手段を、彼は提供してくれた。また、計画自体を二段階にすることで、約束の期日は有耶無耶になるだろうとの入れ知恵まで授けてくれた。正攻法だけではなく、彼はその手のネゴシエートに精通していた。私が彼に感謝を伝えたとき、彼は照れたように何かを言った。それはなんだったろう。一向に思い出せない……。

カタンとグラスの中の氷が音を立てて、我に返った。水中から戻ってきたかのように、店内の話し声や、流れていたジャズが、音を取り戻していた。女性客はすっかり、別の楽しい話題に移っているようだった。

彼がどのように悩んで、どのように自死を選んだのかは分からない。それは事故みたいなものだったかもしれない。破滅的な運命だったのかもしれない。彼が喪われてしまった今では、考える意味のないことだ。死はいつも、考える意味のないことまで考えさせようとする。考えたいことを、無駄にさせてしまう。今は2023年の7月25日で、私は友人の死を考えている。