元日考

息を吐くと白けた。エアコンの電源を入れたいが、手元にリモコンがない。この部屋にはそれ以外に暖をとる術がない。布団の中から出る決心をつけるまで、しばらく時間を要した。26度の設定温度が部屋を満たした頃合いで、昨晩の乱痴気騒ぎがそのまま残った机の上を片付け始める。酒瓶、スナックの袋、灰皿に盛られた吸殻を、一つ一つ処理していく。悪い気持ではなかった。誰かの残した痕跡の世話を焼くのは嫌いではない。昨日のことを反芻しながら、プラスチックだろうが、燃えようが燃えまいが、一つの袋にすべて押し込んでいく。それら全ては過去になった、というような感慨になる。
振り返り、というのが専ら気の乗らない作業になったのは、いつ頃からだろうかと考える。小学生のころ、「帰りの会」というのが下校前に設けられ、その中で振り返りをやっていた。他愛のない内容だが、その日なにかいい事をした友達が居たら手を挙げて、その善行を皆に知らしめるというのが振り返りの趣旨だった。今同じようなことをやると考えると、発言する側も善行を取り上げられる側もなかなか気まずい思いをするような気もするが、当時はゲーム感覚で楽しくやっていた。
最近は振り返りというと、仕事上なんらか反省の必要が認められる場合に設けられる地獄の時間になっている。まあ、地獄といっても、有益ならそれでいい。同じミスを起こさないためにどうするか、みたいな議論が行われるわけだが、エクセルのチェック項目を増やそうみたいな馬鹿みたいな提案はされないので、建設的ではあると思う。今夏、園児がバスの中に取り残されて管理者の責任が問われた事件があった。曰く、園児の出欠はシステムで管理できていたが、管理者は保護者からの出欠報告の真偽の確認をとっておらず、バスの中の目視確認も怠っていたと堂々と会見していて、腹が立った。何よりも腹が立ったのは、そんなことを起こしておきながら、対策について一言も言及がないことだった。無関係の人間が青筋立てても仕方がないので、どう対策したらよいもんかと振り返る。一つは園児が乗車時に靴を脱いで、下車時に履くようにすること。また、バスに警告ブザーをつけること。欧米では、バスの後ろの席にボタンがあり、必ず後ろまで行って押さないと止まらないブザーが設定されているらしい。「必ず園児がいないことを確認!」の決意を新たにするのは完全に無駄であり、アーキテクチャで閉じ込めが発生しない仕組みを作る必要がある。
というように、振り返りという行為は目的意識を以て行う必要があるが、反芻はそれを必要としない。考えてみれば、「思い出す」ことは「振り返り」であるか「反芻」であるか、そのどちらかになるんじゃなかろうか。(テストで年号を思い出さなければならない、とか、そういうのは置いておくことにして)ここ数年、仕事ばかりで毎日の厚みみたいなものが薄くなっているように感じるので、今年は少し、思い出せることを増やしたい。出来れば、反芻して、何度も笑えるようなことを増やしていきたい。ということから、今年は少し沢山日記を書いていこうと思う。それが何になるかは置いておいて、重ねた時間が何かの意味を持つように、今この瞬間で感じられたことを後で忘れないように。
窓枠には結露した水滴が垂れ落ちている。部屋は薄暗いが、東に面した窓から赤く日が差し込み始めた。小銭を持って外へ出て、近くの自販機で缶コーヒーを買った。死んだように静かな気配の中で、苦みだけが暖かく、生きて寂しい気持ちだった。