疲れたときの頭の中の話

波打ち際で砂の城が崩れるのを待っていた。作ったものが壊れる瞬間が昔から好きだった。最初に気付いたのは、父の腕時計を分解したときだった。緻密に時を刻んでいた歯車たちの姿をドライバでこじ開けて、無遠慮にばらばらにして、一つ一つを白い紙の上に並べた。一番細いシャープペンでその輪郭をなぞって絵にしたいと思ったけれど、歯車の溝はシャープペンの芯よりも細くて、結局は細かな金属を持て余して、そのまま燃えないゴミに出したのだった。慎重に作ったトランプタワーを壊す瞬間や、錆びついて乗れなくなった自転車のホイールを車体から取り外して坂道に転がしたり、焼かれた遺骨を葬儀場の人が特に所以もない無機質な棒で粉々にする光景とか、そういうものが好きだったのだ。例えば皮膚が蜂の巣みたいに細かく、一部分だけあなぼこだらけになったなら、僕はその穴の垣根を一つ一つ崩して大きな穴にしたがるだろう。もし肺胞が外側に露出している生き物が居たら、まあそこまでグロテスクな想定をしなくてもいいのだけれど、その一つ一つをピンで刺したくなるだろう。そういう欲求は誰にでもあるものだろうか、それとも自分の性癖によるものだろうか。例えばそんな精神が形をとったら、どんな構造になるのだろう。
波打ち際で砂の城が崩れるのを待っていた。なにかが崩れていくのが好きなのだ。秋が来てどんどん落ちてしまう葉っぱとか、生活で剥げかけているネイルだとか、すり減った靴底の断面だとか。どこか草臥れてしまったなにかに惹かれる時に、ああ自分もそれに癒やされるほど草臥れてしまっているのかもしれないと思うのだ。余るようになった革のベルト、くすんだ色のトートバック、雨で錆びついたトタン屋根。昔ベトナム人の友人が住んでいた家は、比喩ではなくプレハブ小屋で、僕たちはそこで持ち寄ったゲームに夢中だった。外では狐が死んでいて、日に日に微生物がその体を分解していく様子を一日一枚写真に収めて本にした写真家が、現代っ子に身体性を教育する教材を作ったと褒めそやされていた。学級文庫に置いてあったから、何度か読んだけれど、あれはいい本だった。一番面白いのは、狐が死ぬとその体に巣食っていたノミたちが一斉に別の宿主を探して体から離れていくシーンだ。死に体はノミも食わず、はて、我々は生きて食い物にされたほうが、寂しくないのであろうか。