春樹臭い日記

大学の友人に長く病気で療養していた男がいる。僕の二つ上の24歳で、頑強そうな黒縁眼鏡と厚ぼったい唇がなんとも偏屈そうな印象を与える。今期の進級者が学籍番号で学務課に貼りだされた中に、彼のものと思われる番号があった。西暦の下二桁が番号に含まれるので、番号のうち一つだけ二年も古いとすぐに分かる。しばらくぶりに連絡を取ると、やはり彼だった。進級祝いの言葉を掛けると、自嘲気味に、やっとだよと言う。彼と僕のあいだには本当に些細な交流しかなかったが、顔をあわせたくなった。都合を尋ねると、喫茶店にしばらくいるから君も来ないかと応えた。
 喫茶店に入ると、奥の席に彼がいた。黒縁の眼鏡は銀のフレームに変わり、唇も薄くなったようだが、ひと目で彼と分かった。すっかり別人のような彼をすぐに彼と気付けたのは、大病を患ったひと特有の顔色を見たからだ。腐葉土のように黒ずみ、剥製のように生気の抜け落ちた顔だ。弱った木が枝葉を伸ばすことを諦めるように、彼も自らの生命の一部分を何かのために失ってしまったのだと思った。そうしなければならなかったのだろう。こちらに気付いた彼が、やあと手を上げたその仕草にはようやく生気が感じられて、僕は少しほっとした。

「どうもまだまだ本調子ではなくてね」
彼は体と、精神について話してくれた。

「患う前の自分の感覚というのは、もう一切なくなってしまった気がする。勿論、ある一時にあったような苦痛はほとんど無くなったし、それは僕が回復したってことだろう。でも、回復っていうのは、元通りって意味じゃない。あくまでも、点滴やリハビリが必要なくなって、普通に生活できるようになっただけでさ。
 療養しているうちに、時間が過ぎて、22歳のからだから24歳のからだになった。回復のための2年だったし、変化のための2年だった。もう22歳の体には戻れないんだ。病気をする前の体って意味でね。今こうして生活できていることは本当にありがたく感じるし、幸運だと思う。でも、この変化に心がついていかない。病院の白いシーツの上じゃ、そっちの成長は見込めなかった。培養器があるなら欲しいよ。
 最近、いつも何かに駆り立てられている気がする。年齢っていうのは、社会的な価値判断として使われたりもする。22歳と24歳じゃ意味が違う。そういう気持ちって本当にどうしようもなくてね。たまにこうして喫茶店で本を読んだりして、紛らわせるんだ」

「回復は変化によってもたらされて、その変化は不可逆だと」
というような意味のことを僕は言った。

「理解されにくいけど、そういうことだ」
彼はそういう意味のことを言った。

 肉体と精神というはるか昔の二元論をテーマに様々なことを話したけれど、手垢のついた結論だけでフル・アルバムが2枚作れそうだった。彼は以前より早く、そして多く喋るようになった。

「一人暮らしっていうのも新鮮でさ」
彼はこの六ヶ月ほどが人生で初めての一人暮らしだったそうだ。

「実に色んな人が訪ねてくるね。押し紙NHK、学生インタビュー。インターホンが鳴るのが怖くなったよ」

「学生インタビュー」

「知ってるの?」彼の質問に僕は答えた。

「知ってるよ。僕のところにも来たけど、真面目に答えたよ。後で損をしたと思ったけど」

「どういうこと?」

「インタビューを通じて、学生と仲良くなることが目的なんだ。訪ねてきた人は、学生風だった?」

「そうだね、3人組の男」

「彼らは実際にサークル活動をしている学生なんだ。ゆるゆると遊ぶ団体なんだけれど、そこに入らないかと勧誘してくる。実態は宗教サークル。誘いに応じて、缶蹴りなんかで十分遊んだら、その後アパートに連れていかれて、マザー・テレサの映画を丸々2時間見せられるんだ」

「缶蹴りと、マザー・テレサ
彼は反芻するように呟いた。

「体と心の有り様としては、健康なのかな」

アルバイトの時間だと言って、2杯目のコーヒーを飲みかけにしたまま彼は席をたった。もう一度彼と話す機会があるなら、思弁的な話はやめて、もっと具体的なことを聞きたいと思った。なんのアルバイトをしているのか、交友関係はどうか。回復が変化ならば、たぶんその機会はもう一度くらい訪れてもいいはずだと思った。