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2013/06/11忘れる話

 書くことで忘れることがよくある。不快な体験を人に話して、頭がスッキリするようなことはよくある。それと同じように、人は書くことで忘れることができる。昔なにかの本で読んだ一節に、新聞記者の話がある。クイズ番組でどのような人々がより好成績を収めるのかという実験で、ビジネスマンや学者、そして記者などが集められ、時事問題や専門的問題についてのクイズを解いていく。記者は時事問題に触れる仕事と言ってもよく、番組のオーディエンスは、記者がクイズにおいて強みを発揮するものと期待した。しかし、実際には記者は人並みの成績に落ち着いてしまった。ニュースをキャッチしては記事にして広める、という日々の仕事の中では、書く量は膨大になる。習慣化された営みが記憶に留まり辛いように(一昨日の昼ごはんはなんだっただろうか?)、記者たちは書いた側から内容を忘れてしまうのではないだろうか。本にはそのようなことが書かれていた。
 今日は書くこと自体を忘れてしまって失敗してしまった。決定した予定を、予定帳に書くのを忘れてしまった。今日までにやっておくべきことをすっかり忘れていたお陰で、胃の痛い思いをした。最近こういうことが多くて、なかなか失敗から学べていない自分に嫌気が差してきた。頭を打たれたことを忘れて、何度も隣人に吠えてしまう犬を想像する。
 隣人に犬が吠えると、飼い主が家から飛び出してくる。彼は手に持った靴べらで、犬が吠えなくなるまで何度も打つ。犬は痛みに怯えて吠えるのをやめる。飼い主は安心して家の中に戻って、大きなソファの上で横になって本を読み始める。しばらくすると、隣人の家に来客がある。見知らぬ人物が側に来たために、犬はまた吠え始める。家から凄まじい形相の飼い主が飛び出してくる。。こうしたサイクルを繰り返すうちに、犬は学習する。「私が吠えると、飼い主が私を打つ。したがって、私は吠えてはならない」ある晩、門の外から家を覗く不審な男がいる。彼は人目がないことを確認すると、門を乗り越えて庭に忍び込む。そこでぎょっとする。なんと庭には大きな番犬がいて、じっとこちらを見ているではないか。しかし、吠えるような気配はない。男はしめしめと家に近づき、一つの窓の錠が緩んでいることに気付く。そういう例もあることだし、たまには忘れてもいいんじゃねえかな。