モルフォジェネシスと愛おしい木屑

破滅的なムードについて書く。具体と抽象を行き来することに疲れている。教訓を得て経験を物語る。物語は常に虚構であり、現実と虚構を行き来する間に、血肉はすり減っていく。身も蓋もなく何もかもさらけ出すことは、卑近であると思う。全ての表現は切り取ったものでなくてはならない。切り取って、加工して、額縁に嵌められるサイズまで落とし込む。dogという単語は犬を表現しているのではなく、ほかの「犬らしくないもの」から「犬のようなもの/犬と呼んでよいもの」を切り取っている。全ての意味論は「どう切り取られるか」について語っているに過ぎない。人間は言葉の犬だ。記号で示された集合/非集合でしか思考ができない。芸術に限って言えば、アングルが重要であって、写されているものは必ずしも本質ではない。現実から切り離されて、初めて美しい。それは、空間的にも時間的にも、隔離されていて、個人的には孤独であってほしい。誰も知らない感情があったとすれば、それは「あああ」であり、万が一それを上手く捉えて額縁に落とし込んだとすれば、それが詩であって、物語ることである。そのような考えが、現実を逆に酷く歪なものに変えることがある。精神は恒常性を持っている。生活の根幹であり、言葉的なもの以外を拒絶する。新しい言葉ばかり考えると、現実がやせ細っていく。言葉の無意味さ、現実の経験のありようの底に手が触れた瞬間に、少しずつ狂っていく。底から掘り出したそれに価値があるのかは、値踏みをする両替商が居なければ、値がつかない。当人はそれが何より重要だと思っていることが、現実との間でずれていく。奥歯で噛んだ砂利の音、目の前に堆く積もったそれを、砂金だと信じ続ける。

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宅配を常用している。これまでに何度も同じ中華屋さんで、同じ炒飯を頼んでいる。その日頼んだ炒飯には、チャバネゴキブリが混入していた。腹は千切れていたが脚や体躯の形はそのままで、今まで口に運んだ中に内臓があったかもしれないと思うと、気色悪くなった。迷わず店に報告して、その分の料金は戻ってきたのだが、汚い昆虫の入った飯を食わせられたのだからむしろ金を貰ってもよいのではなかろうかと思った。さて、目の前には3分の1も食べていない炒飯がある。流石に気持ち悪くて食べようとは思えない。思えないのだが、ふと考える。なぜ食べられないのだろうか? たとえば、私が森の中を三日さまよって、食べるものもなく歩いていた時に、目の前にこれがあったら食べるだろうか? 恐らく食べるだろう。死にそうなんだから。じゃあ、死にそうじゃなければ食べられないのか? たとえば、私がゴキブリを食性に持つ文化圏(そんなものがあるのかは置いておいて)に生きる人間だとしたら? 恐らく食べるだろう。「気持ち悪くて食べられない」というのは、そういう意味で、文化的に規定されているはずだ。私が気持ち悪い、おぞましい、吐き気がする、と生理的に思うことは全て、実は文化的規定の上にあり、私がこれを食べられないというのはすなわち、ある文化的規定のデフォルトに従っているだけで、私自身の意志、あるいは自由が無意識に制約を受けている結果である。そのように自由を奪われた人間であり続けたいのであれば、残飯として丸ごとゴミ箱に捨てればよい。しかし、自由を渇望する真の人間でありたいのであれば、これを残すなど信条に反すると言わざるを得ない。そのような煩悶の結果、2分の1までは食べてみたが、気持ち悪くなった。今、私は文化的踏み絵の罰を受けているのだと思った。試しにチャバネゴキブリが媒介しうる細菌について調べてみると、サルモネラ菌赤痢菌など、物騒な名前が出てきたので、私は残りを全て廃棄した。

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新橋で明け方まで飲むとろくでもないことになることは経験上分かっていた。友人をカプセルホテルまで送り届けて、どこかもう一軒と考えたところで、日本語の怪しい中華系のキャッチの女性に引きずり込まれるように店に連れていかれた。私がこの失敗談を話すと、ここについて一番噛みつかれる。そのような店に行くべきではないのだ。ただ、始発まで居られればよい飲み屋は別に選ばなくてもよい。金さえとられなければ。その女に連れていかれた先は、物凄く奇妙な場所だった。細い階段をとんとん上った先、暗がりの廊下の先の扉はガラス窓が付いているが、中を隠すようにカーテンが降りている。女が扉を開けると、まるで古い喫茶店に入ったかのようにカランコロンとドアベルが響いた。中には、煙草を吹かす長髪の女と、金髪の女が待っていた。長髪の女が店主らしく、私が席に着くなり、ハイボールをテーブルにコトリと置いた。中は暗くぶち抜きのワンフロアで、壁に沿ってテーブルと座椅子が配置されていたが、客は私ひとりだった。金髪の女と、キャッチの女が適当に話を振ってくるので、適当にハイボールを飲んだ。長髪の女がワインを薦めてくる。キャッチの女も金髪の女も飲みたいと言う。いくらか聞くと、二万円と答える。いやいやそんなもん払えるかと答えると、グラスなら一杯二千円だと答える。心底うんざりしたが、まあいいかと思い直し、女二人に一杯ずつワインをふるまった。そのうちに自分もワインを飲みたくなった。金髪の女のワイングラスを引っ手繰って一口飲むと、それはワインではなく、温かいウーロン茶だった。びっくりして女の顔を見ると、いかにも「しまった!」という顔をしていた。照明が暗いため、濃い茶色と赤ワインの色の見分けがつけられず、気付けなかったのだ。私はそれを理由に、店をそのまま出ようとするが、食い逃げするなと言われる。仕方なく数千円を払って店を後にした。店を出た後も、始発まであと二時間は時間を潰さなければならなかった。後ろからキャッチの女がついてきて、ぬけぬけと別の店を紹介してくる。とんでもないメンタルの強さだと思った。警察署に一緒に行こうか?と聞くと、流石に離れていった。かと思えば、また別の女を連れて戻ってくる。キャッチの女が面白くなって、名前を聞いて、身の上話を聞いた。女はミョンミョンと名乗った。6年前ぐらいに日本にやってきて、いくつかの店を転々としており、今は主に新橋にいる。中国系の自助的なコミュニティは飲食店やマッサージ店を営んでおり、そこに紹介で入り込んだ。日本で稼ぐと、まあまあお金になるらしく(それは物価の問題ではなく、原価ぶっ壊れの値段で酒を飲ませるからだろうが)家族にお金を送っているらしい。だからもっと金を使えとぶち上げた。そんなのは知らないが、まあ楽しんだ分は払うからと言って、私はその後ミョンミョンの紹介で二、三軒の店を回った。どの店もグラスワインが数千円、ふと気づくとボトルワインが入れられている、といったぼったくりばかりで、なんとも面白かった。最後の店は、スナックのようなところで、一曲千円で歌っていいよと言われた。そんな相場があってたまるかと思ったが、スピッツのロビンソンを入れて気持よく歌い、最後にはゲロを吐いた。自分の生涯においてあれほど綺麗にゲロを噴射したことはないが、手に持ったマイクとか、自分のズボンとか、店のテーブルに気持よくぶちまけた。それから記憶がなく、次の日の朝、新橋駅に向かう途中で意識を取り戻した。足がふらふらでほとんど歩けない状態だったが、金髪の女と肩を組んで歩いていた。なぜ最後に店の後に、金髪の女が現れたのかは経緯が分からない。なんとか新橋駅から電車に乗り、自宅へ帰ることが出来たが、財布の中はすっからかんで、キャッシュカードの一日の引き出し限度額まで現金を引き出されていたことが後で分かった。金銭を盗られる、というのは思ったよりもショックだった。幸せなことに、今までの人生の中で犯罪に巻き込まれるようなことは無かった。世の中には至極当たり前に他人の金を掠め取る悪人がいるのだと、至極当たり前のことを感じて、凹んだ。それに、盗られた金が惜しかった。こんな馬鹿なことに数十万円盗られなければ、もっといい遊びが出来たのに。あり得た可能性みたいなものを無限に考えられてしまうから、金銭を盗られるというのは心にくるのだと思った。

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破滅的なムードについて書く。レトリックだけでどうにかなるものはある程度消費し尽してしまった。内側には何もないことがはっきりしたのだと思う。絵を始めてから三年がたった。誰かに見せたいと言うよりは、自分を表現するのが当初の目的だった。創造性がどこに宿るのか。ただの木を掘って、そこから観音様を掘り出す例えがある。美はそこにあるものではなく、何かが切り取られることで顕現する。ある一瞬間がそれを可能にする。時間から切り離されて初めて美しい。絵画も写真も同じことだ。美しい音楽は時間軸を持っているじゃないかと諭されることがあった。私は確信しているが、音楽には時間軸はない。我々がある一定のリズムに規則性を感じて、それを時間軸の目盛りとして誤認するから、時間があると勘違いするだけだ。ある等間隔に並んだ特定の帯域の音に時間を感じない生き物は、音楽を理解できない。私はそれを三年間絵にしようと模索し続けて来た。残ったのは、ゴミの山だった。時間軸が錯覚であることを示すには、私の生きている次元が低かったのだ。観測者はその次元を超えた認識を絵にすることが出来ない。4次元の立方体を上手く描けないのと同じことだった。物理学をやっていれば、気づくまでにこんなに時間を要さなかっただろう。私は無いものを木から掘り出そうとして、今や全てを木屑に変えてしまったのだ。それら全てが愛おしかった。私だったもの達は、机の上に堆く積もっている。

※一部フィクションを含みます。