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例えばの話

その昔業務上過失致死の疑いで送検された羽田巡査曰く「人生にやり直しはきかないが、ゲームならリセットできる」らしい。今日の天気は素晴らしくて目が潰れそうだった。喫煙所でタバコを吸っていたらスペイン語だかポルトガル語だかの言葉を話すおじさんが僕になにかを訴えてきたのだけど全く意味がわからなくて泣き崩れた。おじさんは僕を泣かせてしまったことを深く反省しているみたいで、膝を折り頭を地面に擦り付けた。「イッツ、ドゲザ」僕はすっかり泣き止んだ。おじさんは草食動物みたいな瞳に深い色を湛えながらその場で足から根を生やして巨木になった。いまどき、人前で巨木になる人がいるとは思わなかった。根っこの窪みに雨水が溜まっていて、僕はそこでタバコの火を消した。車に戻り近くのスーパーに6インチのドリルを買いに行った。品揃えが素晴らしくて、1インチから2696933インチまでのドリルが離散数学的に販売されている。1.5インチのドリルを欲しがる人がいたらどうするのだろうと不思議に思うけれど、未だにこのスーパーに対して誰かが悪くいうのを聞いたことがない。レジの店員は耳や鼻、唇に幾つもピアスをしていた。まさか、この穴はみんなドリルで?そう聞くと、店員は「まさか」と答えた。「ピアッサーですよ」「鼻も?」「ええ」「その一際大きい耳のやつも?」「これは中々苦労しました」店員は教えてくれた。「1.5インチかな」6インチのドリルは600円だった。車にも飽きたので、歩いて家まで帰ることにした。いつの間にか土砂降りの雨だった。土砂降りとは、土砂の崩れるが如く激しく降る雨のことだろうか。それとも、土砂崩れが起こりそうなくらい激しい雨のことだろうか。髪の一本から靴下まで一瞬でびしょ濡れになった。手に下げたドリル入りのビニール袋も、水でパンパンになった。そうこうしていると、足首まで水に浸かっている。これはそろそろ高いところに避難しないと、街中で溺れてしまう。鉄筋コンクリート建て三階の建物を探す。ひどい時は16.7mにまで水位が上がったこともあるらしい。しかし、あたりには建物一つなかった。ただただ茫漠とした田園と、誰かの屋形船くらいのものだ。水位はすでに胴の半分まで及んでいる。船に乗っている芸者に乗せてくれと頼むと、快く受け入れてくれた。年の頃は20歳そこそこと見えるが、このくらいの年齢の女性には上手く化かされる。下手なことは言わないでおこうと思うと寡黙になり、船倉を叩く雨の音ばかりが響く。「なにを持っているの?」と芸者が口を開いた。ドリルだよ、と答えると、まるで命の在り処を尋ねるような口調で芸者は言った。「それは、何インチ?」どうしてそんなことを深刻そうに聞くのだろう。「6インチだよ」そう答えると、芸者はひどくホッとしたように繰り返した。「6インチね」「そう、立派なドリル」「でも、あなたはそのドリルが欲しかったわけじゃない」「どうして分かるの?」簡単なことでしょう?と焦らすように言って、呟く。「あなたは6インチの穴が欲しかったのね」それから26年が経った。僕は49歳になった。16.7mからは、32年が経っている。1インチから2696933インチの中で6インチを選んだ。あの時彼女の欲しかった穴は、一体何インチだったのだろう。いま、彼女は何歳なのだろう。土砂降りの雨の中で、たまに思い出すことがある。「人生にやり直しはきかないが、ゲームならリセットできる」業務上過失致死の疑いで送検された(後に不起訴)羽田巡査の言葉だ。そのリセットボタンを押すには、爪楊枝がぴったりだということを、僕は知っている。