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濁った頭はいつまでももとに戻らない。
錆びてしまった道具みたいに、どれだけ磨き直してもどこかぎこちない。

薬物を摂取して壊れてしまった頭みたいなものかもしれない。
ある一定の刺激を与えられてしまったら、ずっとそれを追い続けて、
ずっと歯がゆい頭、濁った頭で生き続けるしかないのかもしれない。

これからどれだけ頑張らなければいけないのだろう。
不安は常に不定の変数から生まれる。固定化して算出して、自分の
果たせる役割としてそれを具体的な数値と工数に落とし込めれば
不安はなくなる。

不安への対処というのは、なにを差し置いても学ぶべきことだと思う。
いろいろな対処がある。考えないようにする。考え尽くした上で具体化して、
日々の消化できるなんでもないタスク(歯磨きや洗濯のように)として捉えて
処理してしまう。定量化できないなら、期間で区切り、不定の部分を自分以外の
三者に割り当ててしまう。そういった形で、なんらかの対処について考えることは、
建設的に話し合うことができるし、自分を楽にするために一番役に立つ
議論でもある。

濁った頭がもとに戻らない。なぜならすべて置いてきてしまった。
ある一定の快感がずっと脳裏にこびりついている。それを上回る経験がないと、
飽いて捨てて腐らせてしまう。生活は鮮度を保っている。外を歩けばなにかに出会う。
それらがある閾値を超えない限りはいつか思い出せなくなる記憶でしかない。

なぜ今こんなに辛いのだろうと手元の定規を持ち出して図ろうとしているのだが、
自分のメモリでは計測できない。自分の考えていることのすべてが無駄なタイミング、
相対化したら"こうしないから悪いのだ"とあからさまに分かってしまう。

他人に辛さを分かってもらう必要はない。定量化できた作業がそこにはあり、
それを時間内にこなせず、ただただ私がそれを処理しかねている原因とその
工程を示せればそれでよい。

説明は客観的であればあるほどよいが、それが主観的な説明となることもある。

あなたが誰かに相談をする心理的負担を誰が勘案してくれるだろうか?
あなたがある問題を理解するまでにかかる時間を誰が計測してくれるだろうか?

前者は計測できないが、後者は定量化可能な作業だ。
そのように理解する人もいるかもしれない。しかし後者の計測をしたところで、
実質的に役に立つことは実は物凄く少ない。共感を得られないどころか、
無能扱いされることもある。

眼の前の辛さにどう立ち向かうか、どう建設的に解決するかを求められている。
それが主観的な辛さを脱却して、私の工数としてこのように負担がかかるということを
明示的に客観的に説明する義務を負っている。そんなものからは目を瞑って逃げ出したい。
明日仕事に行けるのかもわからない。毎朝の吐き気に打ち勝てる自信もない。

けれど、なにを考えるかは自由だ。いま自分がなにを考えられるかは自由だ。
どれだけ辛くても考えなくて良いことなら考えない。なにを考えるかを選択することが
できる、というのがリベラルアーツの価値なのだから。

話題を大きくするだけして、私は酔っ払った現実の体から明日働ける
分だけの負担を吐き出した。アルコールは吐くのに役立つ。

明日たとえ何もできない蛆虫でも、世界が終わるわけじゃない。
這いつくばってなんとかしたい。十分な睡眠はない。