新宿は

新宿のスタジオでバンド練習をした。久しぶりにドラムを叩いた時に、まるで自分の体では無いように感じた。満足に体が動かない。失われた時間は多い。しばらく叩くと息切れさえする。そのように感じるのは悲しかった。楽器は自分を表現するための道具だったはずなのに、いつの間にか自分を思い出すための道具になっていた。表現したいことなど特になかったのかもしれない。底は、濁っているうちは見通せない。感受性が常に外界からの刺激に晒されている時代には、小石の投じられた池の底みたいに泥が舞っているものだ。何かのきっかけで、アクセスが閉ざされて、少し無口になり、泥が沈殿したころに、素直にその奥を覗いてみると、自分には本来的になにもなかったことがよく分かるようになる。そういうことを、ドラムを叩いて思い出すのは、それはそれで面白かったし、悲しいようでもあった。
17時に練習が終わった後、23時まで酒を飲んだ。色々と話し込んだけれど、結論の出たものは一つもなかった。終電が近くなったので、一緒に飲んでいた面子とは別れて、小田急線に向かっていたけれど、ふともう少し飲みたい気持ちが湧いてしまった。なにか一つくらい結論を出したいと思ったのかもしれない。フラフラと歩いて、西口ガード下から歌舞伎町に歩き、そういえばこの辺にゴールデン街というスポットがあったなと思い出した。
通りを歩いていると、客引きの男が寄ってくる。これがお姉さんだったらあるいは僕は万有引力の法則に従い墜落した可能性がある。「いっぱいいますよ」「なに系ですか」「おっぱいですか?それともおっぱい以外ですか?」キャッチの男は言葉巧みに揺さぶってくるが、僕は「このへんのゴールデン街ってところ、行ってみたくて来たんですよ」と答えた。すると、キャッチの男はなにやら諦めた表情になり、「あー、ゴールデン街っすか。お兄さん、飲み疲れたら、またおっぱいお願いします」と言ったきり、ついてこなくなった。僕はその態度に若干わくわくした。おっぱいを威に狩る男が、そのようにスッと引き下がるほど、面白いところなのか?
しばらく歩くと、それっぽい通りに出会った。所狭しと看板が並ぶ隘路に、千鳥足の酔客がちらほら見える。秘密基地みたいな場所がいくつもあって、店内が見えるところもあれば、シックなドアですっかり閉鎖している営業中なのか微妙な店もあった。一つの通りで、大体30店舗くらいはある。とりあえず適当なお店に入っておすすめの店でも聞いてみようと思った。
適当に入った一軒目で、コーヒー割を頼んだ。店の主人は30代くらいの女性で、70代のおじいちゃんの話を延々と聞き込んでいた。なんでも、そのおじいちゃんのGoogleアカウントにログインできなくなったので、困っているらしいとのことだった。複数回パスワードを間違えるとロックが掛かり、復旧には電話番号を利用したPIN認証が必要であることを伝えると(伝わったかどうかは知らないが)おじいちゃんは満足して、通院先の病院とかの話をしてくれた。やがておじいちゃんが店を出て、僕もコーヒー割を片付け終わろうとした頃、外国人客が10名でわっと押し寄せて、なぜか店の主人を僕が手伝い氷を運んだりするハメになった。ウイスキーの日本酒割を頼んでいて、愉快な人々だった。
店を出る段になって、主人に他店舗のおすすめを聞いてみる。3件くらい教わって、次の店に出掛けた。次の店は、レコードが所狭しとおいてある音楽喫茶のような内装で、店員がDJとなってかなり多様なジャンルを流している店だった。お通しは角煮で美味しかった。特に話すこともないので、酒の失敗の話などを好き放題していると、「あんた本当に、クズなんだな」とありがたいお言葉をいただき、店を出た。
次の店は、若い女の人が一人で店番をしていた。扉を開けようとしたら鍵がかかっていて、うまく入れずに諦めて別の店へ歩こうとしたら、内側から開けて快く受け入れてくれた。自称この界隈で一番話が面白い女、という女子大生で、キャラ濃いなあと思っていたら話も濃く、やたらめったら書いたら簡単に特定されてしまうような話とかもあり、終始ゲラゲラ笑ってしまった。佐久島の話、なぜ佐久島へ行きたいかという話が、大体二時間に渡るスペクタクルで披露された。
飲むに飽き足らず、次に訪れたのは店の名前も覚えてないが、急な階段を登った先にある店だった(だいたい、二階三階のお店は急な階段を登らざるをえない)スキンヘッドの男が、若者相手に経営の何たるかを滔々と説いていたので、自分も学歴を生かしてそれっぽいツッコミをしつつ適当に御立てていると、気に入られることができた。話してみると、マネジメントを含めて技術相談する内製組み込み系SEとのことだった。これ幸いとばかり最近の困りごとを相談してみると、明確な答えを持っているので、そうですよねそうですよねと話して最終的にラインを交換してもらった。
すでに夜も明けて電車が動いている時間だったが、ダメ押しでもう一軒くらいいってみようかと適当な店に入った。店内は小綺麗で、クラフトビールが比較的多く置いてあった。隣の客がスマホをデザリングして、店内のモニタで好きなバンドを流しているので、色々と話し込んでいたら、めちゃめちゃかっこいいバンドを教えてくれた。三人組、東洋人、unsafe とか human とか drop みたいな単語が曲名かバンド名に入っていて、歌声(というよりメロ)がトム・ヨークで、結構ポストロックよりの音楽性、というドツボであった。しっかりバンド名を一度確認したのだが、今を持って思い出せない。もう一度聴きたい、誰か心当たりのバンド名があったら、教えてほしい。
店を出ると、賑やかだった通りの看板のほとんどの光が落ちていた。一つくらいの結論も出る前に、夜がすっかり終わってしまった気がした。ただ、解消されない問題があるのだとしても、ポロポロくっちゃべるのも楽しいなと思った。街のことを知れたような気がして、いつもより自信を持った千鳥足で帰った。