天使は首を吊らない

天使は首を吊らない。何を当たり前のことを、と思われるだろうけど、これまでに首を吊ろうとした天使はいない。踏み台を蹴って縄に体重を預けても、背中の羽が勝手に生きようと暴れ続ける。勿論、飛び降りて死ぬこともできない。どうしたって羽が邪魔をする。勝手に生き延びようとする羽を押さえつけるには、強く縛ってやる必要があるが、そのような膂力は天使にはない。自らの羽をどんなに縄できつく縛ろうとも、羽は容易に引きちぎる。そのように強い羽だから、どうやったって天使一人の力では、強く結んで押さえつけることができない。
ある天使が首を吊っているのが見つかったとき、界隈は大騒ぎになった。彼女の胴には幾重にも銀の糸が巻き付けられており、どうやら彼女は羽の自由を完全に失った後、彼女自身のすべてを縄に掛けたようだ。この天使が死んだのはなぜか、およそ悪魔のようなゴシップが持て囃されるようになった。
まず第一に、幾重にも銀糸が巻かれる前には、天使は強い羽でその悪辣の手から逃れることができる。彼女は望んで銀糸を巻かれたに違いない。しかし彼女が死ぬために銀糸を巻いたのであれば、それを手助けした何者かがいる。天使が自殺の幇助などを犯すわけがないとなると、悪魔の仕業に思えてくる。
悪魔であれば、天使の羽の力を奪い去る非道を叶えるのは想像に難くない。それが空想に過ぎないのは、悪魔は絶対に天使の言うことを聞かないというただ一点に尽きる。銀糸を巻いてくれと言えば、絶対に巻かない。彼らの本質は天の邪鬼であり、どこまでも無邪気に心を読み、何があっても期待に答えない。天使が自殺を望んで銀糸を巻こうとするのであれば、その銀糸を(上等なのにも関わらず)バラバラに千切ってケラケラ笑う。悪魔は本来的にそのような存在だ。
残された可能性は、天使殺しだ。天使を殺す悪魔はよくいるが、これまでに、羽を奪われて死んだ天使はいない。天使の羽は、悪魔の力に屈服するほど弱くはない。天使の意外に羽根を縛るなど、悪魔には到底出来やしない、というのが大方の考えであり、このような天使殺しがあり得るかといえば、誰しもが首を横にふる。結局は、どのようにしてこの天使が死んだのかはついぞ分からないままだった。
「それは簡単なことですよ」酒場で飲んでいると、悪魔が語りだした。「あの天使は死んでから、銀糸を巻かれたのです。悪魔はきっと、彼女が自らの意思で羽を閉じ、息を窒いで死んだという誇りを奪いたかったのでしょう。銀糸を巻いたのは悪魔に違いありません。寂しくぶら下がっていた天使の、すっかり靭やかさを失った羽を、銀糸を持ち出しゆっくりゆっくり縛ったのでしょう。彼女が一体どれだけの決意を持って、暴れる羽を抑え、自らの意思で意識を暗闇に堕していったのかを想像しながら、ただその一点だけをこれ以上なく裏切るために、絵画のようなその天使の体に、いらない飾り付けをしたのでしょう」悪魔は惜しむように、ため息をつく。「しかし、どうしてあのような方法を選んだのでしょうか。今となっては誰にも分からず、誰も考えようとせず、点睛を欠いた風景画として、いつか忘れられてしまうのかもしれませんね」