地獄は頭の中にある件について(終)

なにかあったはずなんだけど、ぼんやりとしているうちに思い出せなくなっていく。言葉が人を傷つける形をしていた時代は終わって、ゆっくりと絵筆で絵の具を伸ばすみたいに柔らかな表現ばかりを好んで使うようになった。いつの間にかすっかり毒気が抜けていたのだ。伝えたいことは山程あったし、気に入らないことも沢山あった。誰よりも礼儀知らずだったし、それでいて優等生だった。他人を笑うのが楽しくて仕方がなかった。自分より頭の悪い人を、それ以外のところで褒めそやすのが生きがいだった。AがBを主張し、CがDを主張しても、等しく馬鹿らしかった。それでいて何も詳しいことは知らなかったし、調べようともしなかった。あたりが暗くなった頃、誰かが付けた蝋燭の火に寄ってきた虫を眺めていた。花火を掴もうと思って火傷をした。定かじゃない記憶を、酔い覚めの頭痛の中で引っ張り出して、片方ないサンダルを諦めた。簡単になくしてしまえるものばかり、大事にしていた。それを大事にすることが自分らしさだと思いこんでいた。そうしているうちにどんどん、言葉は重さを失っていった。誰かを惹きつける力を引力と言うなら、それは必ず質量の側に存在する。地球に立っていられるのだって、地球が十分重いからなのだ。いつからかすり減らしてしまった、その重さは、二度と返ってこない。考えることのすべてが下らない日々を過ごしていると、足元が覚束なくなる。急行の上り列車が側を通り過ぎる時、8階の居酒屋の非常口から階段を降りる時、日常に出来たその境目で目眩がする。どうにか2本足を地面に接着させたくて、今日も本とか絵とか音楽の中に引力を見つけたがっている。現実味とは、寝起きの頭の重さのことだ。あらゆる複雑系、現実に対する所感を持ち続けることだけが頭を重くして、体を地面に縫い付けてくれる。それを地獄と呼んでみる。