久留米

話したいことがたくさんあるけれど、大体が仕事の話で、話し相手の共感とかを大事に話題選びをしようものなら同じ仕事の話というジャンルの中でも言いたいことの中心から半径100Kmほど離れた話になってしまうのでどうしても寡黙を選びがちである。元来多趣味な人間かとこれまで錯覚し続けていたがその場その場で楽しいことをしていただけだと気付いた。じゃあなにか情熱を持って取り組んでみようかと思っても意外にも続かない。常に何らかの楽しさが期待値としてある物事じゃないと駄目みたいだ。
ここ一年、なにか含蓄のある本を読んだだろうか。好きな人と分かち合いたくなるような素敵な食事をしただろうか。心を動かされる音楽や、物語や、景色に出会っただろうか。あったような、なかったような、中途半端な感慨が湧いてくる。私はあまり思い出に執着のない人間なのかもしれない。誰かと昔話をすると、生き生きと昔あったことを蘇らせるのが皆上手いと思う。そういう人は「これ絶対何年も語り草にするやつだから、ちょっと意識して覚えておこう」みたいな気持ちはあるのだろうか。居たら怖いけど。楽しいことを覚えていられるコツがあったら教えてほしい。
一年くらい前の夏に朝帰りして電車で寝て昼帰りになったときの文章を読み返すと、なんと鮮やかなことだろうと我ながら思ったりした。OMOIDE IN MY HEAD状態というやつかもしれない。あのときの自分は頭が痛くで、自分を取り戻すのをじっと待っていた。はっきりとあの時見た風景が思い浮かぶような気がするけど、本当にそんな風景だったかなんて、その時の自分にしかわからない。無闇に学生生活を美化してみたり、大したことない出来事を一生の不幸のように語ったり、過去にあったことはすべからく不定形な記憶と結びついて、文字にでもしない限り果てしなく茫漠とした個人の思い出になってしまう。ある瞬間、そこで思ったことが、何かの形で残る。久留米を北上していたのは俺かもしれない、とも思う。