昔理科の実験で酸性の液体とアルカリ性の液体を化合させると中性になり塩と呼ばれる澱がビーカーに作られるのを試したことがある。イメージの話なんだけど、心に傷がつくとかっていうのはそういう感じなのかなと考えている。自分の心の状態にそぐわない外界からの何かが流し込まれると心そのものの状態と反応して淀んでしまう。そこでできる澱はどうやって取り除いたらよいのか分からないし、大抵は心持ちの変化しか意識しないから、無意識に底に沈んでいるそうした澱はずっと掃除されないまま残ってしまう。朱に交われば赤くなるという言葉があって、主に悪い例えで使われる。ある環境に身を置くと望むと望まざるとにかかわらず何かしら影響を受ける。これも心の状態のイメージに近いように思う。結局どうやったって生きてる限りなにかしらの影響を受けるのであれば、どうやってメンテナンスしていこうかなと考えるのが建設的かと思う。とは言いつつ「これが澱やねん」と具体的に例を示すのが難しい。澱かどうか分からないが、久しぶりに会う友人がなにか昔と違っているような、表面的には変わっていないけれどもどこか考え方の中に凝りのようなものが見えると、心配になる。「こうあらねばならぬ」とかって思い込みがとても近い。その人がロールモデルとしたなにかがその人の心の有り様に影響した結果、「ねばならぬ」感がずっと喋り方とかの底で帯域制御しているような気がする。それは違うだろと思ったりすることもあるが、私も大変澱んでいるので、最早人とぶつかりあうことは多少面倒くさくなり「それでいいじゃん」「頑張れ」で済ましてしまう。この澱と戦わねばならない、というのが最近の「ねばらなぬ」になる。