内田百閒

文章を書くときに、人はどこから考え始めるのだろうか。大体は適当なタイトルをつけて、アバウトにこれ語りたい!と適宜話題を選びつつ書いていくものだと思う。書いているうちに考えることがあって、また書いて、その繰り返しである。そういう書き方をしていると最初のタイトルから全然違う結論だったり筋道に行きついている場合がある。いま上のタイトル欄には「内田百閒」と書かれている。そう、なんだか今日はサラサーテの盤でも読もうとしていたのに、東京日記の途中で飽きてしまったので、なんか書こうかなという気になって、こうして書いている。結論は未だ見えない。
落語とかはオチのある話という意味合いであるため、必ず話の終わりには、話が一本に纏まって「締まったね」となるキーワードが入ってくる。サゲとか言った気もする。落語が作られた当時の文化をもとにオチが作られているので、たまに理解できないオチに出くわすことがある。当時の言葉を使った駄洒落なんて分かるはずもない。とりあえず笑っとけ、となる。俺はこのオチの意味が分かる、というアピールである。いつの間にか大衆芸能から代わって教養のいる趣味になってくる。だいたいの文化はそうしたスノビズムに毒されていくことになる。新作落語も盛んであるが、私はほとんど唯一といってよい「出オチ」の落語を知っている。演目名「ふたなり」である。みさくら語でやってほしい。こういう紹介をしても、これで笑えない人もいる。とかく万人受けする冗談は難しい。イッツスノッブ
借りたままの服がある。男物とも女物ともつかない、ゆったりとしたカーディガン。持ち主は女で、借主は男だ。別に寒い季節でもないのに風邪をひいたときに、看病をしてもらって、ついでにこれでも着ておけと預かったものである。当人からしたら預けたつもりもなく、恵まれない人への寄付だったのかもしれない。返すことは、おそらくもうない。
誰かに与えられたものは、ずっとなんらかの形で残る。恩讐も愛憎も重ったるしく残る。軽く生きていたいのに、重ね着しろと言われる。暑苦しい言葉は好きじゃないし、冷たい態度もそれはそれで冷え切ってしまうことがある。体温はいらない、その場に残ってる温もりだけほしいこともあれば、髪の毛一本落ちているだけでガソリンをまいて火を付けたくなることもある。
ずっと嘘ばかりついていると、自分がよく分からなくなる。という風に聞いた。そんな風に生きていると、言葉に行動が引きずられて、うれしくないときにでも喜べるようになる。可愛くないのに、かわいいと言えるようになる。そしていつのまにか感情も考え方も言葉に引きずられてしまう。そんな中で出会った人に、ほとんど生まれて初めて「好きです」と本音を告げたそうだ。そうすると、その人は深く喜んだ。それで、自分が今までついてきた嘘を考えるとぞっとしている。それと同時に、本当の気持ちで相手が喜んでくれることが、何にも代えがたくうれしいことだと気づいてからは、正直者になった。ただ、本当と嘘を織り交ぜて話す人の方が、本当のことだけを語る人よりも、真実らしく聞こえるのが世の常である。本当のことだけを正直に話すのは、とても厳しくて辛いことだった。そういう人を間近で見ると、心配にもなるけど、なんだか世の中捨てたもんじゃないなと思う。そんな風に考えてみる。
こうして書いていること自体が、まさしく同じことで、人を騙そうとするなら文章が一番いい。なんの視覚情報もなく、ただ活字だけを追っている人の意識は、暗闇を歩く人のように隙だらけである。こうして読んでいる後ろで誰かがスマホを覗き見ていることなんて考えもしない。ましてやこの内容すら適当だったりする。人称も曖昧、登場人物も曖昧。誰が何を感じたかをはっきり書かないでただつらつらと言語化作業をしているのは楽しい。
内田百閒の東京日記には、何の変哲もない昭和の東京の風景と、化け物が書かれる。化け物オチの話がたくさん詰まった掌編集になっている。内田先生はやたらと美文なので読んでいてここちよい。猫好きなのもポイント高い。次回は文豪と猫という語り口で始めたい。タイトルに内田百閒って書いてあるとどうしても触れなきゃいけない感があって最後に触れることになったが、別のタイトルつけ直すのが面倒くさいという至極便宜的なお話になるので今度はタイトル付けずに書こうと誓った。