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さみしさの周波数

本稿は私が常々「悲しいのは喪失感で、切ないのは距離感」*1とする感覚の話、その「距離感」の部分についての定義としておくための覚書のようなもの。

美しい人が楽器を弾いていると、まあ切ない気持ちになる。そこには結構な距離感が存在する。話してみれば普通の人で、案外同じことに同じような感想を持っていたりする。けれどもいったん音の緯度とリズムの経度が空間をある層に引きずり込むと、プレイヤーはその世界の役者として公園の遊具みたいな形のそれをぐるんこんと回し始める。回転の中で重力が生まれて、歪んだ音色を中心に系が形成されて、相対性理論を全身にひしひしと感じるとき、私と彼(女)はいったい何光年を隔てた場所に居るのだろうと思って、まあ切ない。
美しい人はそれだけで役者としての素養がある。際立った美しさは人を惹き付ける。重力のようなもんである。重力というのは、物理的には空間の歪みとして捉えられる。美人の周囲では空間が歪んでいる。小顔の人とツーショットを取ると遠近感が崩れるのはそのせいである。あるいは、美しい人の周りの人間関係を辿ってみると、しばしば歪んだものが見える*2のも、そのせいである。
美しく生まれたというだけで、その人はある程度世の中で浮いている。やたらと褒めそやされたり、やっかまれたり、他者との関係が容姿との関係性の中に位置づけられる。そのような尺度を早い段階から獲得するので、美しい人は穏健になる。情緒的な成長が早く、大人びた性格になりやすい。*3どのような振る舞いのもとに自らの役を演じればよいのか、無意識的に理解している。
そもそも彼(女)の居場所は、美しく生まれたときから限られている。制服を着て学校に通うだけで違和感を覚えさせるような人種なので、いかに浮かないかを考えている。世間一般に考えを巡らしても、ぴったりの職業はなかなか見当たらない。せいぜいが映画の中、写真の中であるが、それすら役不足である。
美しく生まれていたら、「美しく生まれていたら」という想像ができない。天使にとっての天使が居ないように、美しい人は美しい人に幻想を抱くことが出来ない。そこに存在する絶望的な距離感と切なさも知覚されない。猫の視覚で景色を見ることが出来ないように。私は影を反射的に追う。けれど、美しい人にはそれが見えない。その影に憧れることもない。

とても切ない

切ない
つくしい「かんばせ」のお話です

*1:この2つをはっきり区別しないと私は悲しい

*2:個人的事例の少なさがあります

*3:もはや嘘です