ハードボイルドな毎日

赤いレーザー・ポインタが額の中心に重なる。私はこれまでだと観念した。
飛び起きると、カーテンの隙間から光が差し込んでいる。7時を回っていた。活魚のように跳ねまわる心臓をどうにか宥めすかす。ここは日本だ。スナイパーなんてどこにも居やしない。落ち着け、落ち着け。汗で濡れた寝間着が肌に張り付いて、不快だった。
シャワーを浴びて朝食を摂り、アパートを出るのは8時。小さな紙切れを玄関のドアではさみ綴じた。何者かが鍵をこじ開けて侵入していたとしても、これで気付くことができる。とはいえ、向こうも馬鹿ではない。紙に気付いてはさみ直すことだって考えられる。気休めにすぎない細工だが、やらないよりはマシだった。
大学までは徒歩15分ほど。常に背後に気を配りつつ、私はなるべく人通りの少ない道を選ぶ。尾行をしてくるなら、おそらく大学生を装うはずだ。人通りの少ない道であればあるほど、警戒は簡単になる。黄色いパーカーの男が一人後をついてきた。ゆったりとした格好の相手は、どこにどんな凶器を忍ばせているか分からない。頬を汗が一筋垂れ落ちていくのを感じた。幸い彼は尾行してきたわけではなく、道沿いのコンビニに入っていった。私はひとまずホッとした。
講義の時間は、私の緊張が一気に高まる。沢山の学生が一つの教室に入り、教授の話を聞くのだ。誰が私を狙っているのか、いつ行動に出るのか、全く読めない。四方八方が敵に思えて来るのは厄介なので、私は必ず最後尾最奥の席を選ぶ。教室全体を見回し、不審な仕草をする学生には注意を向ける。隣の席には荷物を置いて誰も座らせない。教授の「今日はこれまで」の一言を聞くまで、一瞬たりとも気は抜けない。
昼食は常に一人で食べる。最も安心できるトイレの個室の中である。毒物などを混入される危険がないように、弁当を持参している。しかし安心とはいえ、どう考えても弁当を食べるのには最も不適切な場所である。なるべく早く食べ終えて、すぐにその場を離れた。
午後の講義は何事も無く終わるかと思いきや、突然声をかけられた。「久しぶりだな。しばらく見ないうちに痩せたか?」やたらを私を気にかける男だ。何かの折に知り合ったはずなのだが、そのきっかけが何だったかは覚えていない。そもそも私を気にかけるという時点で、彼は私の警戒リストの最上位に記名されている。私と親しくなって、気の緩みを突くために、こうして声をかけてくるのかもしれない。視線を切って俯向き、私はただ彼の問いかけを黙殺する。しばらくの間の後で彼は小さなため息をつき、飯はちゃんと食えよと言って、それきり黙った。余計なお世話である。
登校時同様、帰り道も全力で警戒しながら歩いた。自宅に着くと、今朝挟み込んだ紙切れはしっかりとドアに残っていた。それでもゆっくりと、ドアを開く。部屋に入って、ようやく安心できた。緊張でボロボロになった神経が、少しだけジンジンと温かみを持ち始める。霜焼けのような感覚だ。私はもそもそとベッドに入り、ミノムシのように丸くなる。こんな日がいつまで続くのだろう。今日はなんとか生き延びた。明日はどうだか分からない。少なくとも今日、この瞬間、私は生きている。安心感の中で、私は眠り始めた。




赤いレーザー・ポインタが額の中心に重なる。私はこれまでだと観念した。
飛び起きると汗でびっしょりだった。またあの夢だ。エアガンの標的にされて、失明しかけた小学生のころのこと。落ち着け、落ち着け。スナイパーはここには居ない。
シャワーを浴びて朝食を摂りアパートを出るのは8時。ほとんど2日ぶりの食事だった。ストレスのせいで私の消化器官はほとんど役に立たない。無理やりお腹に詰め込んで、吐かないように気をつける。なにかを食べないとダメだと頭で分かってはいても、体はなかなか言うことを聞いてはくれない。
大学までの道のりは永遠と言っていいほど長く感じられる。時間にして15分ほどなのだが、とにかく怖い。歩いている道が柔らかくなって、足にまとわり付き、重くなる。そんな錯覚に陷る。後ろから男がついてくる。黄色いパーカーを着ている。昔受けたいじめが尾を引いて、今も男性は苦手だ。ただ同じ道を歩いているだけだと分かっていても、私を後ろから狙っているような気さえする。しばらくすると彼はコンビニに立ち寄るために道を逸れた。立ちくらみがするほど、ホッとした。
始業時間になんとか間に合ったが、知らない人ばかりの教室に入るときは、足がすくんだ。いや、知らない人ばかりというのは違う。顔だけ知っている人ばかり、なのだ。友達になれなかった人たちの集まりだ。どこか座るところを見つけるだけでも、辛い。今日は幸い後ろの席が空いていた。誰かが隣に座るのも怖いので、荷物を置いた。
昼食はいつもトイレで一人、食べる。和式と洋式が1つずつの、狭いトイレだ。大学でも一番古い棟のあまり使われない場所なので安心できる。いつのまに、こんなに他人が怖くなってしまったのだろう。気付いた時にはもう、遅かった。こうやって生きていくのが、私にとって一番楽なのだ。
その平穏を壊すかのように、午後の講義の終わり、声をかけられた。「久しぶりだな。しばらく見ないうちに痩せたか?」男だ。顔がどうしようもなく熱くなるのを感じる。どうすればいいんだろう。怖いけど、でもこの人はなんとなく大丈夫だ。本当に些細なことから、少しだけ会話が成立したことがある。緊張して、音にならない音が喉から漏れる。口の中が物凄い勢いで乾く。そのままなにも言えないでいると、彼は少し残念そうに、飯はちゃんと食えよ、と言ったきり黙った。
私は消え入りたくなって、その場から離れようとした。歩き出すと、彼が後ろをついてくる。帰り道が一緒なのだ。アパートの場所もすごく近い。そうだ、確かそれでばったり会って話をしたんだ。彼が後ろを歩くのは気まずいけれど、今さら振り向いて声をかけるなんて私には出来ない。ひたすら緊張しながら帰り道を歩いた。
自宅に着いてドアを開けようとすると、紙が挟まれていることに気がついた。そうだ、私が今朝ここにはさんだ紙だ。ドアを開けると、ひらりと落ちる。スパイ映画なんかに出てきそうな仕掛けだ。私はその紙を拾い上げて、書かれている文字を読む。
「今日も1日頑張ったね、おつかれ。 私へ 私より」