何かについて

辛いことはたくさんありますね。誰だってそうです。もちろん楽しいこともあります。これも、ほとんどの人がそうだと思います。だから、辛いことばかり考えて楽しいことに気が向けられなくなるのは馬鹿だなあなんて思うんです。

文章を書く作業は、彫刻とよく似ています。漱石夢十夜に、運慶が仁王を掘っている場面が出てきます。そこで漱石は「ああ、木のなかに仁王がいるのを掘り起こすだけなら簡単だ」と考えて木を彫るのですが、うまくいきません。まあ普通仁王なんか埋まってない。
文章もそんなもんです。自分には高尚で独創的な主張があるなどと思って文章を書いても、結局その内容は平々凡々の一般論になったりします。また、なにかを書くということは、それ以外を捨象することでもあります。誰かへの謝罪文を書くためには、謝罪の念以外を全て切り取らなければいけません。本音ではどう思っていようと。つまり、なにかを削り取って形を成す。これも彫刻とよく似ている点ですね。

それでなんですけど。じゃあ日記ってなにを切り取ってるんでしょうか?
昔からよく日記を書いてます。小学校のころは夏休みの宿題に日記があったので、楽しく書いていました。携帯電話を持つようになってからは、SNSで書いてました。モバゲーとかに行くと中学生の頃の日記が未だに読めたりするんですよね。給食のこれこれが美味しかったとか、寒いとき白い息が出るのはなんでだろうとか他愛のないことを書いてて楽しい。
モバゲーを辞めてからは、realogというブログサイトで色々と日記を書いていました。これが大変残念なことにサービスを突如停止・閉鎖してしまったせいで、ログが一切残っていません。それが高校入学くらいまでのことです。
残っている日記を読み返すととても懐かしい気持ちになります。昔の自分が切り取られて、そっくりそのまま残っています。使う言葉が稚拙であったり、読みやすいリズムの句読点が下手だったり。今こうして書いている内容もまた、後年の自分からすれば恥ずかしいものになっているかもしれません。
それでも、書いておくことは良いことのはずです。その時の文章で、その時の出来事を思い出し、その時の感情を追体験できる。そんな大事な資料になるといいかなと思いました。
明日はお通夜です。