2013/06/07日記(閲覧注意)

 一日寝て起きた。起き抜けに苦いインスタントコーヒーを飲んだ。なぜこんなに苦く感じるのだろう。苦さは一般的に不快な感覚だ。この苦味が好まれるとは一体どういう理由だろう。考えてみると、不快な感覚がなぜだか好まれている場合がたくさんある。煙を肺に入れてみたり、足の裏のツボの痛みを進んで受けてみたり、熱いお湯に入ってみたり。しかし不快な感覚が引き受けるだけの益があるのかもしれない。ニコチンが脳内で快楽物質を分泌させる。足の裏から神経系を通じて血流が活性化する。熱いお湯は身体の凝りをほぐす。じゃあ、苦いコーヒーは一体何なのか。おそらくそれは現実感なのかもしれない。朝起きてぼーっとした頭は、苦味によって覚醒して、今日は今日だということを確信できる。そのようにして、インスタントコーヒーをすすった。午後四時の事だった。
 それからラーメンを食べた。たいして美味しくはなかったが、ラーメンをすすることが必要だった。そういう時もある。あるいはまったく必要のないときもある。アフリカ南部の小さな村で、焼き畑を行なって生計を立てている人々は、きっとラーメンを食べたいと思うことはないだろう。彼らが中華料理に触れることはないはずだ。僕がそういう地勢的な条件のもとに育ってきたのであれば、今日ラーメンをすすることもなかったのかもしれない。でもアフリカ人ではないし、焼き畑で暮らしているわけでもないし、焼き豚が好きだったからチャーシューが食いたくなった。それは不可避的な欲望だった。
 それから図書館で勉強した。一日学校に行かなかったことを反省しながら机に向かっていた。代償行為的だった。彼氏に会えなくて寂しいからケーキを食べるのと一緒だ。あるいは、手首を切るのと一緒だ。しばらく手首を切ることについて考えていた。手頃なカミソリを使って、手首の皺をなぞるように線をひくと、墨を吸った半紙が滲むように血が出てくる。構わず何度も線を引くと、大きい静脈を切ったりする。健や神経に刃がぶつかるたび、指先まで痺れるような感覚がある。そこに至ると、カミソリが血で滑って、うまく切れなくなる。ものぐさをして、なたと手頃な板を持ちだす。板の上に置いた手に思い切りなたを打ち付けると、手首が薄皮を残してころりと落ちる。そんな風に手首について考えていると、自分がペンを持ってノートに字を書いていることが奇跡的に思えてきた。よくもまあ、7歳のころから頑張ってくれたものだと思う。下手な字しか書けない手ではあるが、大事にしなければならない。