プルタブのない缶ジュース

忘れたことと覚えていることのどちらが多い?と聞かれると、大体の人は忘れたことのほうが多いに決まっていると答える。じゃあ、忘れたことと覚えていることの数をどうやって比較したのか?と意地悪な質問をしてみる。当然、忘れたことなんて沢山あるが、忘れたのだから数えられない、と答える。そう、さっきの回答は間違っている。忘れたことについては何も言えないのだから、忘れたことのほうが多いなんて言えないのだ。しかし、そうは言われても納得できない。忘れたことのほうが必ず多い。数えられはしないけど、自分の中には確信がある。うまく説明できないけど、それは必ず、いま思い出せることよりも沢山あるはずなのに。プルタブのない缶ジュースの中身。

学校や職場で、プルタブを集めるリサイクル活動の話を聞いたことはあるだろうか。昔の缶ジュースは、開栓するとプルタブがすぐに取れてしまい、道端などによくポイ捨てされていた。野良犬の誤飲ならまだいいが、家の中に取れたプルタブを置いておいて、自分の子供が飲み込んでしまったら大変だ。安全や環境美化のためにプルタブはボランティア活動の一環で回収されるようになった。ある一定量を集めると、プルタブは社会福祉への資材として、車椅子に変わって寄付される仕組みだ。
気の利いた活動だったけれど、90年台以降、開栓後もプルタブが缶に固定されるよう、メーカーが改良を施した。今となってはそもそも必要の無くなった活動だけれど、なぜかアルミ缶から無理やりプルタブを外して、集めている連中がいる。*1手を動かすのが楽しいのか、本来プルタブを集めていた意味が忘れられて、分離しなければならないと思われている。忘れられたことよりも、覚えていることのほうが多いのに、現実にプルタブを外すことは滑稽な作業になっている。これが、プルタブのない缶ジュースの中身だ。

自分の中には、いくつも眠っている記憶がある。どうしても思い出せない。思い出せないことは分かるけど、その記憶の箱を開くための取っ手がないのだ。僕にはそれがプルタブのない缶ジュースみたいに思える。誰かが施した、滑稽な作業のせいで、大事なことが失われてしまっている。今日この日にも、また新しい何かの思い出を作っては、それを大事にしまいこんで、開くための取っ手をぽろりと外してしまう。忘れるってことはなんて可愛いんだろう。そうした記憶がたまに何かのきっかけで、開くことがある。いつか飲み干した記憶の欠片が喉に刺さって、こんな味だったっけな、と思う。

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