ヤサシイワタシ

漫画らしく、最後は希望らしきものをちょっと見せて終わっているのだけれど、現実に誰かを失った人たちっていうのは「なぜ?」っていう答えの出ない問いを持ちながら生きていくのだろうと思うし、多分登場人物である彼らもそうやって生きていくのだと思う。再び問い直しても答えが出ないことは分かっているから、ずっとそれを持ち続ける他なくなってしまって、考えないようにしていくしかない。
弥恵さんのことについては、全部芹生が語ってくれているし、弥恵の友人の言葉もかなり手厳しいけど本当のことだ。「あんなのは頑張ってるって言わないんだ」「でも、あんな頑張りが報われる日が来るとしたら、絶対に許せない」「そんな思いの落ち着き方に、まさかこんな形があるなんて」(要約。以下カギカッコの台詞はすべてニュアンスです)弥恵さんの世界って、敵か味方かしかなくて、自分に不都合な一切のことを認めたがらないところがある。というか、そもそもそれを「自分のために言ってくれていると認識できない」のだろうと思う。
なぜそんな性質を持ってしまったのか。はっきりと作中では語られないけれど、弥恵さんのファザコンという面を描いて作者が説明を試みていると思う。親の言うことが全てで、そこに善悪の判断が持てない。親の意見から別の問題を考えるとき、彼女には物差しがない。色んな判断を親まかせ(というより人形のように)してきた結果として、彼女の情緒はまだ赤子の発達段階のようなもので、快か不快かでしか物事を受け取れないまま大人になっている。それはそのまま他人への言動に繋がっていて、他人の視線を内在化した行動が取れないために、周囲の人間との不和が次々と生まれていく。
創作写真はその心理的な幼さが現れている最たるもので、弥恵さんの撮る写真の出来は他人から見ればかなり低いレベルだった。だけど、それは弥恵さんにとっては紛れもなく最高傑作だったに違いないのだ。それが彼女が全力で取り組んだ結果だし、写真に対する低評価を弥恵さんは攻撃と受け取る他なかった。それと同時に、他人の気持ちも想像できないから、元カレとのセックスを生々しく彼氏に話したり、路上生活者のポートレイトを思いつきで提案したりしてしまう。
そんな弥恵さんを芹生がどうして好きになったのか、少し不思議だ。好きというより、すべて受け入れる覚悟までしている。おそらく二人の生きづらさというのがどこかで地続きになっているからだ。「世の中真面目じゃない人ばかりと分かってしまうと、そこから自分のやる気が削がれてしまう」「そういう面で、彼女から傷つけられることはないと思った」という芹生の言葉が過去形なのが、すごく悲しいところだ。結局死ぬまで真面目じゃなかったんだ、本当のところではどうでもよかったんだ、という裏切りへの怒りみたいなものがある。
作中では何度か「優しさ」に触れられている箇所がある。芹生と弥恵さんが出会ったときの、弥恵さんの言葉。「他人のことを馬鹿にしてればいい。自分が優しくなれるよ」そして、死んだ姉について芹生に語る妹の言葉。「遺書には『私を分かってくれない』という世の中への恨みつらみばかりが書いてありましたが、家族について悪く言っているところなんか一つもありませんでした」「姉はしばしば薬に手を出していましたが、私に勧めることは一度もありませんでした」「本当に、優しい姉です」
妹の言葉は皮肉のように聞こえるところもある。遺書で一言も、私達のことを責めてくれない姉は、本当に優しい姉です…というような。弥恵さんは敵のことばかり考えていて、その敵に対しては見下げて馬鹿にすることしかしてこなかったのだと思う。そして、優しい姉として、いなくなった。タイトルの「ヤサシイワタシ」には色んな意味があると思うけど、弥恵さんの生き方のことなのだと思う。だからこそ、裏を返せば他人から見て「ツメタイアナタ」なのだろうし、失われた体温は永遠に戻らない。
ともあれ、奔放な弥恵さんが好きなんですよね。近くにいたら嫌だろうけど。だからずっと、読むたびに「なぜ?」って考えてしまう漫画です。ちなみに作者は「おおきく振りかぶって」の人らしいです。この作品の展開はバスターみたいなもんですけど。。